備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

原発のやめ方を考えよう!(長文注意)

 3.11後の東京23区内で日常生活を送り続けている。最近は停電もない。地震でちらかった本の片付けも終わった。今日は2週間遅れで大学の入学式があって、これで通常の生活に戻る。
 行楽地はどこも閑散としているらしい。他方、毎日行くスーパーやドラッグストアの賑わいは半端でない。子どものいる家庭が外出の楽しみを多少押さえ、ミネラルウォーター代に換えるというのは、とても自然なことのように見える。買い物に疲れ、ときには「世紀末」的表情を浮かべ、これがいつまで続くんだろうと嘆く人たちもたくさんいる。そういう意味で首都は、もちろん地震の被災地の人たちの苦労とは比較にならないものの、じわじわ疲弊している。
 そんな中、今回の「原発震災」を今後の原発の改良に生かそうという巻き返しの動きも出てきている。たとえば、地震に耐えた女川原発を賞賛する次のような発言では、原発の建設基準の「向上」が必要であると言われている。
原発「津波に耐え素晴らしい」 原子力行政「胸を張るべきだ」 経団連会長が発言
 次に出てくるのは、問題が発生した原因や対処法の効果をきちんと分析しようということだろう。これは当然必要である。しかし、注意して取り組むべき問題でもある。
 というのも、失敗の原因を検証することは、次の「成功」(しかも同じ方向での「成功」)につながる道を準備することでもあるからだ。そうやって技術はこれまでも常に「改善」されてきたのだし、これからもそうすることは可能だろう。今回事故を起こしたものより良い原発が可能かと言われれば、当然可能だし、今回のような事故が起こらないようにする技術が可能かと言われれば、それもまた技術的には当然可能だということになる。
 しかし、多くの人が思っているのは、そうやって原発の「改善」を進めていくことが(できるとしても)本当に良いのか、ということなのではないだろうか。「改善」の積み重ねで技術をより高度、複雑にしていくことが、本当に人間の幸せにつながるのだろうか、ということではないだろうか。そんなふうに考えれば「今回の事故を教訓にさらに安全性を・・・」といった類の議論は、被害にあった人の気持ちを逆なでするだけにとどまらず、技術政策的観点からみても問題含みということになる。
 繰り返すが、もちろん事故の検証は必要だ。それは責任問題とも関連する。(*)さらに、特定の技術領域の問題ではなく、より一般的な形で事後に生かされることもあるだろう。事故調査をしっかりやった方が良いことは間違いない。しかし、それと同時に、それだけではなく、別の道を探ることも大切なのではないだろうか。事故を受けて考えることが原発の「改善」だけだとしたら、多くの人は納得した気分にならないだろう。それは、原発の不信感をいっそう強めることにしかならない。
 ではどうするか。提案したいのは、「原発のやめ方」について熟議するということだ。誤解されないようただちに付け加えるが、これは「原発をやめよう」という提案では「ない」。そうではなく、どんな「やめ方」がありうるのか(あるいは「ない」のか!)についてじっくり考えようという提案だ。こういう提案をする理由を次に書く。
 世の中には原子力発電をすぐにでもやめられるという人もいる。たとえば京都大学原子炉実験所の小出裕章氏は、節電もしっかりした上で、すぐにでも止めるべき(止められる)というのが持論だ。より具体的には、駅のエスカレータを止めたら良いと言っていた。(今の東京はまさにそうなっているのだが。)しかし、緻密なシミュレーションをしたわけではないだろうし、温暖化問題等の諸条件を含めてかんがえるとどうなるか、本当はもっと複雑な問題だ。
 また、原子力から自然エネルギーへの緩やかな移行のシナリオを考えている人もいる。例えば、環境エネルギー政策研究所の飯田哲也氏は、今回の事故を受けて、次のようなレポートをさっそく著している。
 「無計画停電」から「戦略的エネルギーシフト」へ
 しかし、これも具体的な道筋は明確ではない。実現可能性についても疑問符を付ける人がいるだろう。共感はできても納得できないかも知れない。ただし、具体的な道筋や可能性についての証明責任を執筆者の飯田氏や環境エネルギー政策研究所に押しつけるべきなのかというと、そうではないだろう。しかるべきところが受け止めて考えるべき大きなテーマだからだ。
 他方で、どうしたってやめることは不可能(むしろ増設して安定したエネルギーは原子力でまかなうべき)という人たちもいる。こちらはたくさんいるので例は挙げない。そういった意見に対して、現状維持的であり、代替エネルギーの可能性を低く見積もっているという批判がある。ところが、この批判はまじめに受け止められていないように見える。たとえば風力は安定しないと問題点を定性的に言うのは簡単だが、日本各地に風車を立てて(太陽電池パネルを置いて)リスクを分散したら最低発電量がどれだけ見込めるかとか、送電線をパブリックなものにしたらどのくらい新しい発電産業が立ち上がるか、といったことまできちんと考えて言っているとは思えない。ただし、それもまた仕方がないことだ。原子力推進を唱える人の多くは原子力の専門家またはそれに近い領域の人であり、代替エネルギーの可能性やましてや政治・社会・経済的な問題について自らが専門的に知っているというわけではないのだから、やむをえない。
 こうして見るとわかるように、「原発のやめ方」という問題は、これまで十分に考えられてこなかった問題なのだ。少なくとも、十分に多様な領域の人たちが、十分な知恵を出し合って、時間をかけて話し合うテーマにはなってこなかった。だから、もし今回の事故を受け止めて新しくエネルギー政策を考え直すとしたら、まず「原発のやめ方」を議論してはどうかというのが提案である。
 「話し合い」「議論」「熟議」と、いろいろな表現ができるが、ここで念頭に置いているのは(参加型)テクノロジー・アセスメントだ。やり方はいろいろ考えられるかもしれない。担い手も、参加者もいろいろ考えられる。しかし、もし、そういった「話し合い」の場を今後設けるとしたら(原子力政策が首相お気に入りの「熟議の民主主義」路線の例外にならなければ、いずれそうなるのではないかと思って言っているのだが)、原子力だけでなくエネルギー全体の問題であることを明確にしたものである必要があると考えている。
 これまでも、原子力をめぐる「話し合い」はたくさん行われてきた。対話や市民参加をうたったものにも事欠かない(円卓会議、市民参加懇談会 etc.)。ただ、どうしても気になっていたのは、テーマが安全性に収斂していくことだ。つまり、「原子力を続けるなら何が問題か」「その問題を解決するにはどうすれば良いのか」という方向にしかいかず、そもそも原子力を続けて良かったのだろうかという疑問は出てこないということだ。本当は問題をより広くとらえるべきではないかと感じてきた。エネルギー政策全体の問題でもあり、日本の経済、社会システム全体の問題でもあるからだ。
 いま、ようやく政府は原子力政策の見直しを表明している。だとすれば、どのように見直すのか、きちんとした手続きに基づいた意思決定が必要だ。それは、専門的知識を生かすと同時に、この国の未来を国民の目線で考える熟議でなければならないだろう。その際のテーマには、「原発のやめ方」が最も適切であるというのが提案内容だ。
 ところで、話し合うためには、さまざまな立場の人がちゃんとテーブルにつくかどうかが問題となる。そこで、「やめ方」といったテーマにいわゆる推進派の人が乗ってくるのかという疑問があるかも知れない。しかし、よく考えると正反対である。推進の立場の人こそ、こういったテーマでの熟議が必要であることを認めるだろう。なぜなら、「やめ方」の解答が見つからなかったときこそ、いやそうやってこそはじめて、原子力発電の必要性が理解されることになるからだ。誰も原子力が社会的にバラ色のエネルギー源として信じられ、受け入れられるとは考えていないだろう。せいぜい、必要悪として我慢できるものに過ぎない。だからこそ、他に道はないのだからという結論を出して正当性することなくしては、今後日本で原発を続けていくのは難しくなるだろう。そういうというところまで追い込まれているという現状認識は、いかに自己中心的な推進主義者であっても共有しているはずだと思われる。また、どんな楽観的な推進派もしばらくは足踏みを余儀なくされるだろうという予想をしているに違いない。だからこそ、今この問題を熟議するのに割く時間も出てこようというものだ。
 そもそも、これまで原子力「業界」(国も電力会社も)は、国民から信用されない存在になるようなことを山のように積み上げてきた。過去を振り返ってみれば、たとえば現在の立地場所を決めたときのいきさつがある。斉間満著『原発の来た町−原発はこうして建てられた/伊方原発の30年』(はんげんぱつ新聞のサイトから本全体へのリンクがある)を読めば具体的な状況がよくわかる。このように、かつては民主的とはほど遠いやり方で立地を強行することが可能だった。しかし、今後原子力を前に進めようとすれば、何らかの形での民主的合意は欠かせないというのは、明らかなことだ。そのためにこそ、推進したいという立場の人たちは、こういった熟議が行われることになったら、そこから逃げられない。逃げたら、みすみす自らの正当性の証明を放棄することになるからだ。
 他方で、原子力に対する代案を提案する人たちにとっては、その代案が真剣な議論の俎上に載せられる願ってもない機会となるだろう。ちなみに、東京電力だって代替エネルギーの研究開発に取り組んでいる(例:洋上風力発電技術の現状と将来展望)新エネルギー開発の当事者だ。 
 もちろん、結論が出たからといって、その方向にまっしぐらということには、なかなかならないだろう。ドイツだって行きつ戻りつしている。しかし、大切なことは、未来を目指して歩き出すことだ。歩き出すために、過去をきちんと清算することだ。「原発のやめ方」を考えることは、歩いてきた道をしっかりと振り返りながらも、希望をもって議論し、新しい科学技術を模索すること、新しい社会システムを構想することにつながるのではないだろうか。