備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

ある人のこと

 その人は、都市部の大学によくある、非常勤講師のための控え室というところに勤務していた。私の見える範囲では、教卓の鍵の管理、書類のやりとり、授業のためのプリント印刷の補助、お茶をいれて運ぶことなどが、その人の仕事だった。夜間部があるため22時近くまで開いているその部屋で、その人が担当していたのは「夜番」だった。私が勤め始めるより前からのはずなので、10年以上にわたってその仕事に就いてきたことになる。毎日16時前に警備室で夕刊を受け取るところから仕事を始め、夜遅くまで一人で控え室にいるその年配の女性が、どのような家族を持ち、どのような生活を送っているのか、もちろん私の知るところではない。しかし、何年も毎週顔を合わせていれば、それなりに互いの性格などもよくわかり、親しみがわいてくるものだろう。
 仕事をきちんとこなすその人は、専任教員に対してもあまり遠慮をしなかった。「○○先生、また机の上をちらかして! 他の先生の迷惑ですよ!」そういった言い方を何度か聞いた。控え室に勤める人の多くは、必要なことはさりげなく確実にするけれど、それ以上には出しゃばらず、どちらかというと目立たないようにしている。その人は、その中ではちょっと違っているかも知れないと思った。しかし、その人は、学期途中で、本人の都合や責任ではない理由で辞めることになった。とても残念だった。
 週に1度しか夜間にその部屋にいくことがない私が、その人が辞めることを知ったのは、もう明日で辞めるという6月頃のある日だった。まだ学生と間違えられることもあった頃から私を知っているその人に、簡単なお礼を言うのがせいぜいだった。後期だけ担当授業のある非常勤講師のS先生が、いつも楽しそうにその人に話しかけていたことを思い出して、9月にSさんが来たら残念がりますねと言うと、その人の目に涙が浮かんだ。どこから聞きつけたのか、TAだったときにお世話になったので挨拶に来たと、勤務後にかけつけた卒業生がいた。
 もう二度と会うことはないであろうその人がいたことを、忘れかけながらもなぜか思い出してしまったので、ここに記録しておきたいと思う。