備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

未来がないといけないのだろうか?

 通勤電車の中で少しずつ読んだ『いのち輝く日 ダウン症児ナーヤとその家族の旅路』(M.ズーコフ著、大月書店、2004年)は、出生前診断に関するアメリカ固有の状況がわかる他、取材対象夫婦の考え方の変化や気持ちの揺れが時系列的に細かく表現されていたり、小説のように読ませる文章もすばらしいノンフィクションだったのだが、最後の方になってどうもちょっとした違和感が出てきて、それが何だろうかと思って考えさせられることになった。気になったのは、(本書自体は障害のある子どもを受け入れることについて書かれているのだが)もっと一般化して他者を受け入れるとか、自分を承認できるとかそういうこと全体かかわることではないかと思う点だった。
 「主人公」の夫婦は、ナーヤにいろいろな教育プログラムを試して、その能力を伸ばそうとする。そのこと自体が、すばらしいことだというのもわかる。そして、もちろんそれがうまくいかなくても、可能性を追求したということが大事なのかも知れない。しかし、そういう可能性の追求を大切だとする価値観の中では、可能性の追求の可能性すら奪われている状態がどのように捉えられているのかが気になる。「承認」には、「今のままで良い」とか「存在すること自体が大切」という観点もあると思うからだ。
 何となく簡単に「アメリカ的」「日本的」と割り切れそうな気がしないでもない。しかし、それだけではない部分もあるのではないかと思った。
 2日続けて神経をすり減らす仕事で会議室。試験の採点が全然進んでいない。