備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

テクノストレスはなぜ消えたか

 ある学生の方と2人で、テクノストレスについての文献を調べています。私は、テクノストレス論が出てきた時代背景に関心があって、その歴史を少し見てみようと思いました。オフィスにOA機器が広まるにつれて、その使用にストレスを感じる人が出てくるようになることが問題視されたのは、80年代の半ば頃からです。人がコンピュータに期待と不安を抱いていた時代でしょうか。朝日新聞記事データベースで「テクノストレス」の語の出現頻度を調べると1989年が最高で、その後90年代もしばしば登場しますが、2004年以降は出てきません。90年代半ばという、おそらくパソコンが一人一台、家庭にも登場というタイミングで、再度出現頻度が増えます。最初は人間疎外の意味で用いられますが、そのうちテクノ依存という意味が強くなっていきます。かなりいろいろな場面で使用された言葉であるということを示す例としては、プログラミングの宿題ができなくて放火に走った東京理科大学の学生の行為の説明に「テクノストレス」が挙げられたケースがあります。その後、労働者のメンタルな問題が増加した原因を機器そのものに帰することには疑いが指摘されます。もちろん、OA機器が入ると同時に、仕事の方法や社内の人間関係も変化するのですから、単一原因論は証明不可能です。しかし、実際に働いていた方の実感としては、OA機器の導入で何かがおかしくなったという感覚があるということだけは、よくわかりました。生活空間へのテクノロジーの導入が人間にどのような影響を与えるのかよくわからないまま、私たちの社会は戻れない変化をしたのだと言えるでしょう。合理化、効率化が達成できたと振り返ることもできますが、それが時代についていけなかったという敗北者意識を多くの人々の心の中に残しながらであったことは、振り返ってしかるべきであると感じました。テクノストレスの語が用いられなくなったのは、それがそもそも漠然とした概念であったこともありますが、あまりにも普遍化して避けようのないものになったからではないのか、というのが私の今のところの仮説です。