備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

「不十分な厳格さには意味がある」または「不便さが協力を生み出す」

 エレベータ移動が重要な役割を果たし、混雑時には一台逃すと大きなタイムロスになる高層ビルでは、エレベータのドア閉めは慎重に行われます。たまたま(あるいは意識して)ドアボタン際に立つことになった人は、その人が「常連」であれば、学生でも教職員でも、人が挟まれないように気をつけ、また乗り遅れの人がいないかどうか確認します。これは、エレベータを「公共交通機関」として利用するコミュニティで形成されてきた乗車マナーです。
 この慣習的行動が、今度はフロアごとの入り口にあるドアにも適用されるようになってきました。この春から導入されたセキュリティシステムのおかげです。いったん閉まってしまうと、ドアから少し離れた壁際にあるIDカードリーダーへのタッチが必要になります。ドアのすぐ脇ではなく、横に少し離れているのがポイントです。リーダーの反対側からドアに近づいて来た人は、ちょっとだけドアの前を通り過ぎる必要があります。そんなこともあって、ドアを開けて通る人は、少し離れたところからドアに向かって来ている人がいると、しばらくのあいだ立ち止まり、その人を待ってあげるようになります。その人が顔見知りなら、急いでいない限りたいていそうしますし、顔見知りでなくてもすぐ後の人に対して少しのあいだドアを押さえるという小さな親切心を持ってしまうのは自然なことです。ところが、本当はこれでは、セキュリティシステムの意味がありません。もし何か重大な事案が発生すれば、こういった行動が見直されることになるかも知れませんが、少なくとも今のところ、この親和行動をやめるようにするほどの危機感を抱かせてはいないようです。
 不親切な行動を取っているという罪悪感を抱かせないでセキュリティを維持する解決策は、個別の入退室管理システムにして、一回のタッチで一人しか通れないようにしてしまうことです。(エレベータから一斉に人が降りてくるフロアでは人間の「渋滞」が起こりますが。)親切心を発揮する余地がないようなシステム設計は、個人を迷わせないですみます。そして、そういう余計なことを考えなくてすむシステムが好きな人もきっといます(私もたぶん好きです)。しかし、それは問題の解決なのでしょうか。
 セキュリティ強化のための個人認証の技術は、人を互いに依存させない空間を作るので、自己責任という考え方とも親和的です。そのようにして人を分断する技術は、結局コミュニティの安定のために別種の親和行動を促す補償を必要とするのではないかと考えました。