備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

遅刻の終焉

 日本で科学史をやっている人には多分よく知られている、橋本毅彦・栗山茂久『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』(三元社、2001年)という本があります。明治の近代化を通じて、それまで日本には存在しなかった時間厳守の文化が、技術とともに導入されたことについて具体的に述べられています。遅刻という概念は、時間を正確に計る装置、時間を巡る制度(定時法)、時間を守る文化等がなければ成立しえないので、近代のたまものだというわけです。

 では、何らかの意味で近代を超えていくような時代においては、遅刻という概念も消滅していくのでしょうか。

 既に1980年に、アービン・トフラーが次のように書いています。「コンピュータが普及し二四時間いつでも利用できるようになると、時間を正確に守らなければ労働能率が落ちるということはなくなる。」(『第三の波』)トフラーは製造業の時代が終わることを予見し、「ジャスト・イン・タイム」で人も工場も動くような文化が崩壊していくことを考えていたので、時間厳守を近代の一つの特性と見ている点は先の書籍と同じです。ちなみにここでトフラーが挙げている労働の変化の例は、コアタイムと遠隔会議です。

 ところで、遠隔授業です。遠隔授業における遅刻とは何でしょうか。制度設計自体で、遅刻の意味がなくなる、あるいは遅刻の概念が大きく変わることになると言えます。要は遠隔授業をどのように使うかにかかっています。あくまでも近代的観念を維持し、遅刻の概念が意味を持つような社会に固執し、学生を時間に縛り付け続けるのかどうかを、試されているのではないでしょうか。

 明日からの開始を前に、なぜ私は授業時間に縛られなければならないのだろうという疑問に悩まされています。一斉にアクセスしたら落ちるサーバは、私たちに時間厳守こそむしろ非効率であることを教えてくれていると言えないでしょうか。学生に一斉にアクセスさせないよう出席確認時間帯の分散を教員側に要請するとか、ファイルを外部に待避させるといった手段で大学は防衛を試みていますが、心配なのは時間厳守を重視する文化になじんだ学生たちが9時10分ちょうどにCoursePowerにアクセスしなければならないと考えてしまうことのように思えます。