備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

『生物学史研究』100号目次更新

 

http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~ft12153/hisbio/journal_j.htm

久しぶりの書き込みによる生存報告です。

毎朝5時に起きて卵焼きを焼く規則正しい生活をしていますが、睡眠不足、咳が止まらない、身体が硬いは変わらず、低空飛行です。8月27日からの夏休みまで気が遠くなりそうな長さです。

 

「安全保障技術研究推進制度を考えるフォーラム」のお知らせ(2020年6月14日)


科学史学会年会でシンポジウムを計画していたグループで、研究活動をできる範囲で継続的に行っていくという考え方から、下記の日時で代わりにZoom によるビデオ会議を企画しています。どうぞふるってのご参加をお願いいたします。

 

日時:6 月14 日(日)13:00-15:30

話題提供:
兵藤友博(立命館大学)「「安全保障」研究と学術界 ―デュアルユース型研究開発モデルを考える―」
千葉庫三(東京工業大学)「安全保障と天文学について―学術会議2017 年声明を受けた天文学分野の取り組み― 」
山崎正勝(東京工業大学)「科学史学会会員としてどう考えるか」

ディスカッサント:
河村豊(東京工業高等専門学校)、横井謙斗(東京大学大学院)、千葉紀和(毎日新聞

開催趣旨、参加方法はこちらにあります。

https://www.dropbox.com/s/gkk1he4fiuz55qi/forumonline20200505.pdf

 

遅刻の終焉

 日本で科学史をやっている人には多分よく知られている、橋本毅彦・栗山茂久『遅刻の誕生 近代日本における時間意識の形成』(三元社、2001年)という本があります。明治の近代化を通じて、それまで日本には存在しなかった時間厳守の文化が、技術とともに導入されたことについて具体的に述べられています。遅刻という概念は、時間を正確に計る装置、時間を巡る制度(定時法)、時間を守る文化等がなければ成立しえないので、近代のたまものだというわけです。

 では、何らかの意味で近代を超えていくような時代においては、遅刻という概念も消滅していくのでしょうか。

 既に1980年に、アービン・トフラーが次のように書いています。「コンピュータが普及し二四時間いつでも利用できるようになると、時間を正確に守らなければ労働能率が落ちるということはなくなる。」(『第三の波』)トフラーは製造業の時代が終わることを予見し、「ジャスト・イン・タイム」で人も工場も動くような文化が崩壊していくことを考えていたので、時間厳守を近代の一つの特性と見ている点は先の書籍と同じです。ちなみにここでトフラーが挙げている労働の変化の例は、コアタイムと遠隔会議です。

 ところで、遠隔授業です。遠隔授業における遅刻とは何でしょうか。制度設計自体で、遅刻の意味がなくなる、あるいは遅刻の概念が大きく変わることになると言えます。要は遠隔授業をどのように使うかにかかっています。あくまでも近代的観念を維持し、遅刻の概念が意味を持つような社会に固執し、学生を時間に縛り付け続けるのかどうかを、試されているのではないでしょうか。

 明日からの開始を前に、なぜ私は授業時間に縛られなければならないのだろうという疑問に悩まされています。一斉にアクセスしたら落ちるサーバは、私たちに時間厳守こそむしろ非効率であることを教えてくれていると言えないでしょうか。学生に一斉にアクセスさせないよう出席確認時間帯の分散を教員側に要請するとか、ファイルを外部に待避させるといった手段で大学は防衛を試みていますが、心配なのは時間厳守を重視する文化になじんだ学生たちが9時10分ちょうどにCoursePowerにアクセスしなければならないと考えてしまうことのように思えます。

医学は社会科学であり、政治は大規模な医学以外の何物でもない。

 19世紀ドイツの著名な医学者、人類学者であり、公衆衛生に重要な貢献をしたRudolf Virchowの有名な言葉です(*)が、同じ文章のその直前にはこんなことも述べています。「医者ほど民主主義と社会主義の支持者となるものはおらず、医者が最も左翼的であり、一部は運動の先端にいたとしても、まったく不思議なことはない。」

 病の広がりを防ぎ、人々の健康を守ろうとすれば、医師としては必然的に民主主義かつ社会主義(≓福祉国家)の政治体制を主張することになるというわけです。細菌学以前の古い時代の話ではありますが、原因は不明でも感染症の存在は医学の対象となっており、さまざまな対策が行われていました。そして、近代社会一般における政治と医学の深い関係性を今でもよく示しています。

 そういった観点から考えると、感染症に対する医学的な取り組みが成功するかどうかは、まさに政治の問題なのであり、そこではとりわけ民主主義と福祉国家のあり方が試されているということになります。行き倒れの死亡者が新型コロナウィルス感染症であったことが判明するといったできごとは、感染症の蔓延防止が不十分であることと同時に、社会的弱者を包摂していく政治の失敗を示していることになります。両者はまさに重なりあっているのです。

 また、行動変容が重要だと言われますが、その行動とは三密を避けるといった直接的な疾病予防の観点からだけでなく、私たちがどのようなコミュニケーションを行うか、どのように専門家を活用し、行政にどのように声を届けるのかといったところにもかかわります。政治と言っても立法府や行政府の活動だけが言うわけではなく、「コロナ圧」に対応するガバナンス全般が問題になってくるでしょう。

 個人は、そういった全体の動きを意識しながら、自分に可能な、最適行動を見つけていくしかないと考えています。家にいます。できることはします。新入生のために。

 なお、行動履歴が逐一把握されるなど、個人の私的行動がビッグデータの海に投げ込まれることで管理が成功する未来像に期待する向きもありますが、古いウィルヒョウの教訓に従うなら民主的なデータコントロールなしでうまくいくとは考えられません。ここで「うまくいく」というのが単に疾病の克服だけを意味しないことは、もちろん上述のとおりです。

(*)Gesammelte Abhandlungen aus dem Gebiete der öffentlichen Medicin und der Seuchenlehre. Teil 1, S.34.

学生に無限のギガを!

これからゼミの欠席理由で、今月のギガ不足というのが出てくるかも知れません。教員が長時間Zoomでゼミを行って通信容量を圧迫すると、ギガハラスメントと言われるかも知れません。トラフィックの増大による通信遅滞が、若者のせいにされて、無駄にギガを使って不要不急の動画を観ているのが悪いなど、非難の対象となるかも知れません。(多くの大学生は真面目に勉強していても。)かなり前から「ブロードバンド接続」が、電気・水道と同様に「健康で文化的な最低限度の生活」の必要条件になると言われてきましたが、そのことを実感させられています。そもそも大学進学自体が資金力に依存する状況になっている中で、そんなふうに言うのは矛盾してもいるのですが。

試行錯誤

パワーポイントに音声を入れて、ためしにそのあと動画にしてみたら、13.5分で200MBになりました。105分の授業をそのまま動画にすると、1.5GBくらいになります。月間60コマの授業を受けたとしたら、授業ファイルをダウンロードするだけで90GBです。

もともと動画にする気はなくて、スライドをめくって音声を聞いてもらえれば良いと思っていますが、動画にするにしても、スライド画質が良くてもあまり意味がないので、画質を落とした方が良いことはわかりました。