備忘録

科学技術論を専門とする大学教員・研究者である林真理の教育、研究、生活雑記。はてなダイアリーから移行してきました。

「ネタ」化する貧乏

 混雑した電車で隣の人が読んでいた新聞に、なつかしい「一杯のかけそば」の文字を見かけたので、何だろうと気になって「チラ見」したところ、気になる一節があった。
 その後検索をかけて見つけた文章はこちら。
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/080125/bks0801250838000-n1.htm
 気になったのは、最後の「格差社会のいま、若者の間で貧乏体験を自慢し合う傾向も広がっている。」というところだ。
 およそ20年(以上)前の大学(院)生時代、下宿の台所で夜に洗った鍋についた水が翌朝乾ききらないで氷になっていた話をする友人が、なぜか自慢気だったのをよく覚えている。逆に、ちょっとした高級品(ビッグマックとか)を所持していると「プチブル」などと糾弾を受けた。そこそこの貧乏は、清く正しいものであり、多少自慢の種になっていたように思う。
 ただ、そういった貧乏自慢は、大学生固有のもので、往々にしてさほど深刻なものではなかった。あるいは、そのときは深刻であっても先に明るい将来が見えているものだった。暗黙の前提として、今は大学生だから貧乏だけれど、これを乗り切って卒業したら就職するのでそうではなくなるということがあったような気がする。
 本当に貧乏自慢は今でもあるのか、あるとしたらそれはどういう種類のものか、そして格差社会との関係は? 「ネタ」化するくらいだから現代の貧乏は深刻ではないのだろうか。それとも、そう考えるのはちょっと怖いことなのだろうか。貧乏をネタへと回収していく装置が格差問題を隠蔽している、というのは考えすぎだろうか。